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千日前 怪談

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江戸時代の千日前は刑場、墓地、火葬場 千日前という地名は、千日寺と呼ばれていた法善寺の前ということに由来する。法善寺では寛永年間より、千日におよぶ法華経の読経と講説(千日回向)を行っていたことから、千日寺と呼ばれようになったという。 千日寺は法善寺および竹林寺とされることが多いが、竹林寺を千日寺とするのは古地図古地誌解読上の誤解らしい(けふ : がふほん、佐古慶三 編著・昭和2-3)。 ・千日前:五階の北に在り、此地は昔時千日(千日寺)の茶毘所ありし前面なり、故に千日前と云ふ、往時此辺りは墓原にて路側に刑場ありたり、観せ物等の興行地は演舞場の北なる溝の側に在りしを、明治の初に至りてここに移せり (大阪遊覧案内・明35) ・明治の大阪で最大の盛り場であった千日前は、江戸時代までは刑場・墓地であったが、墓地の阿倍野移転によって有閑地となり、地域活性化のために大阪 市がここに見世物興行を誘致したことをきっかとして、盛り場として発展をはじめている。 (第三の生活空間と都市の魅力 寺出 浩司) 千日前は明治期になって火葬場、刑場、墓場は無くなるが、人々の脳裏に焼き付いた暗い千日前のイメージは中々拭えなかったという。開発を試みる者が少なかったが、物好きな奥田弁次郎と文(フミ)の夫婦が見世物小屋を建てたことで次第に盛り場となっていく。 当初は人が寄り付かなかったが見世物小屋の周囲に露店や夜店を出して景気づけをすると、次第に人が集まるようになった。 奥田弁次郎の軽業小屋では汚い肉襦袢を着たやせた少女が、竹の先で逆立ちをしたり、綱渡りを見せたのだという。芸が終わると軽業をしていた少女が「お菓子代にするので買ってください」と哀れじみた声で番付(チラシ・ポスターの類)を売りに来る。 千日前ではその他に、江州音頭、女相撲、生人形、藪抜け、化け物屋敷、海女の見世物などがあった。海女の水芸は赤い湯巻の女が水槽に潜って、客が投げた銭や鮒を掴んで見せるという物であったらしい。 千日前巷談より 女相撲 こうした見世物や芝居の類は、昭和期になると映画に人気を奪われて衰退していく。 奥田弁次郎と横井勘市 大阪大学名誉教授・岡田光正著の随筆ではでは千日前の凄惨な歴史について語られている。江戸時代の焼き場であった千日前には大量の遺灰があったが、その処分を担い、横井座という大劇場を作ったのが横井勘市である。 ...

鉱山に出た山女(熊本県球磨郡)

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背の高い山女の話(岩科小一郎 著 山麓滞在) 熊本県球磨郡湯前村の奥に仁原山という場所があり、そこにはアンチモンの鉱山がありました。この出来事は明治中期、月のない夜に起きたものです。 鉱山主任のHという若い男性が、小屋から外に出て数メートルほど歩いたときのこと。暗闇の中で突然、彼の目の前に3人の大きな女性が現れました。その女性たちは裸体で全身を覆うような長い髪が体を隠しているような姿でした。Hは驚き、立ち尽くしていると、1人の女性が笑いながら彼の手を握りました。その手は冷たく、Hは恐怖でどうすることもできませんでした。 Hが必死に助けを求めると、その悲鳴を聞きつけた鉱夫たちが火を灯した松明を持って駆けつけました。すると、女性たちは火を見て怯えたのか、「ヒーヒー」と不気味に笑いながら手を離し、森の中へ逃げ去っていったといいます。Hはその場に倒れ込み、気を失ってしまいました。 この話は「或る村の近世史」に記録されています。同様の山女の目撃談は全国各地にあり、特に山中には山男や山女が棲んでいるという伝承が古くから文献に見られます。九州地方では、こうした話が明治時代に入っても語り継がれており、その活動が往時にはどれほど盛んであったかを想像させます。 一方、東北地方や奥羽山脈のような山岳地帯、さらには南アルプスの大井川奥山でも、山女にまつわる目撃例が登山家たちによって多く報告されています。このように、山女や山男の存在は全国で語り継がれる不思議な伝承のひとつです。 髪が長い山女 柳田邦男著・山の人生に登場する山女の話。 約30年前、肥後(熊本県)の東南端にある湯前村の奥、日向の米良(メラ)との境にある仁原山には、アンチモンの鉱山がありました。その鉱山事務所に住んでいた原田瑞穂という人物が体験した話です。 ある夜、原田氏は少し離れた下の小屋に向かい、そこで作業員たちと雑談をしていました。すると突然、小屋の屋根にばらばらと小石が当たる音が聞こえ、不気味に感じた原田氏は帰ることにしました。 小屋を出て、わずかに歩いたところで、横から背の高い女が三人現れ、そのうちの一人が原田氏の手を強く掴みました。三人の女たちはほとんど裸で、何かを頻りに話していましたが、原田氏には恐ろしくて何を言っているのか理解できなかったそうです。そのうち、大声で人を呼ぶ声が聞こえ、小屋から大勢の人たちが駆けつける...

サンシャイン60(池袋・巣鴨プリズン) 60は処刑された戦犯数と同じ

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サンシャイン60にまつわる都市伝説 サンシャイン60は、かつて「スガモプリズン」と呼ばれた巣鴨拘置所の跡地に建設された高層ビルである。 西武グループは1970年代に池袋の大規模な再開発プロジェクトに着手し、その一環として建設されたのがサンシャイン60である。堤康次郎氏が拡大させた西武鉄道グループの基盤をもとに、義明・清二氏がさらなる都市開発を進めた。サンシャイン60は、当時としては東洋一の高さを誇る超高層ビルとして注目された。 巣鴨拘置所は、第二次世界大戦中に思想犯や反戦運動に関与した活動家たちが収容された場所であり、ゾルゲ事件の主犯であるリヒャルト・ゾルゲと尾崎秀実が処刑された場所でもある。戦後はGHQに接収され、多くの戦犯が収容された。特に、東条英機を含むA級戦犯7名と、BC級戦犯53名がこの地で死刑に処された。 幽霊話と拘置所跡地の変遷 1960年代になると、拘置所跡地を公園化する計画が浮上し、敷地はトタン塀で囲まれた。この頃から、幽霊話が広まり始めた。うめき声が聞こえたり、人魂が目撃されたりするなどの噂が絶えず、公園整備に携わった作業員たちも恐ろしい体験をしたと言われている。 1978年にサンシャイン60が竣工して以降も、この地にまつわる怪談は続いた。竣工直後には、人魂の目撃談が新聞で取り上げられるほどであった。また、現在でもビル周辺で自殺者の霊とされる影が現れ、階段を駆け上がって屋上から身を投げるという目撃談が語られている。昼間でも訪れると寒気を感じたり、不快感を覚えたりするという体験談を持つ人も少なくない。 サンシャイン60と「60」の数字の意味 さらに、サンシャイン60が60階建てである理由について、処刑された戦犯の人数と一致させるためだったという噂がある。この説によれば、「60」という数字はスガモプリズンで命を落とした戦犯たちを象徴しており、サンシャイン60は彼らの霊を鎮めるための「墓標」として建てられた建物だとされている。 こうした背景から、サンシャイン60にはただの高層ビル以上の意味が込められていると考える人もいる。公益財団法人セゾン文化財団が年4回発行するニュースレター「 viewpoint 」。池袋の再開発に尽力した堤清二氏追悼号ではサンシャイン60に対する疑問が記載されている。 「堤(堤清二)/辻井氏(小説家、詩人としての筆名:辻井喬)...