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猿供養寺(サルクヨウジ) 事実だった人柱伝説

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新潟県上越市板倉区猿供養寺 猿供養寺で「サルクヨウジ」と読み、由来は『寺野郷土誌稿』には以下のようにあります。 昔、山寺の観音堂に雄雌2匹の猿が熱心にお経を聞きに来るようになった。時に木の皮を持参し僧侶に写経をしてもらい、 猿はお礼に山芋を持ってきた。 ある時から猿が来なくなり僧侶が不審に思って探してみると、 山芋を掘る時に岩石が落ちて来て猿はその下敷きとなって死んでいた。僧侶は悲しみ川の両岸に2匹の猿を葬る。その川は猿俣川と呼ばれるようになる。猿を供養した縁をもって観音堂に大きな寺を建て 「猿供養寺」と名付けたという。 落石事故で死んだ猿を供養するための寺が猿供養寺となったということです。この土地は昔から地すべりに悩まされており、地滑りの危険を示す崩落地名として「サル」(ずれる)「クラ」(崩れる)などが用いられることがあり、「サルクヨウ」という言葉は「サル」「クレ」などの崩落地名が転訛した言葉だと考えられています。 事実であった人柱伝説 新潟県上越市板倉区猿供養寺では地すべりを止めるために旅の僧侶が自ら人柱になったという伝説があります。 人柱となった僧の遺骨と甕 昔、一人の旅僧が、信濃(現在の長野県)から黒倉峠を越えて、越後にやってきた。その途中で、大蛇が何匹も集まって相談しており「黒倉山から流れ出る大熊川や姫鶴川を、地すべりを起こしてせき止めて大きな池を作り、我々の住み処にしよう。」というものだった。 「もし、このことが人間に知られて、栗の木の杭を四十八叩きにして深く打ち込まれ、人柱を建てられたら、地すべりが止まってしまうので、知られないうちに実行しよう。」とも言う。  僧が驚いて震えていると、大蛇に見つかってしまった。大蛇は「今の話を聞いた以上は、ここを通すわけにはいかない」という。僧は他言しないことを誓う。そして大蛇に「もし他言すれば、命はないものと思え!」と脅かされて、命からがら猿供養寺の村にたどり着いた。 村は地すべりで荒廃しており、村を離散しようかと相談していた。哀れに思った僧は村人たちに大蛇の話をし、四十八叩きの秘法と人柱のことを教えた。それを聞いた村人たちは、さっそく四十八叩きは行ったが、人柱の人選はなかなかできなかった。僧は自ら進んで人柱になり、それ以降、地すべりはピタリと止んだという。 この話は、村人の間で語りつがれていたが、昭和12年

朝日新聞に載った焼死体の心霊写真

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焼死体の心霊写真   2001年12月8日の朝日新聞の『おいしさ愛情便』という読者の創作料理を紹介するコーナーで、焼死体と思しき奇妙なモノが写っているとして話題を集めました。 問題の焼死体の心霊写真 新聞記事『おいしさ愛情便』 :『冬の野沢菜カレー 〜意外に合う和風の具〜 』 6年前にインドに行って以来、様々なカレーを創作しては、友人らにふるまっています。冬に、長野の実家から届いた野沢菜を付け合わせたところ、とても相性がよいことに気づき、食感のバランスを考えながら、旬の食材を取り入れるなど、具や味付けに工夫を重ねています。(江東区自由業 26歳) 野沢菜が入った創作カレーを作る女性の後ろに、黒く焼け焦げた焼死体にも見える物体が写っています。 奇妙な物体は黒焦げの裸体の女性のように見え、記事の内容とあまりにもミスマッチなため違和感や恐怖感を覚える読者が多かったようです。 ネット上の反応は、アートポスターであるとか、読者が自身で書いた絵画ではないか?という見方があります。 件の黒焦げ写真は、今でも実際に新聞の載った心霊写真としてオカルト本で紹介されていることがあります。 関連記事 がんぼう岩の心霊カレンダー(北海道・遠軽町)

足売りババア

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 放課後の小学校、その校門の前で頭巾を深く被ったあばあさんが立っている。 一見すると農家風のおばあさんであるが、不気味にも背負っているカゴには子供の物と思われる人間の足が何本も入っている。 一人で校門を通る小学生をつかまえては「足いるかい?」としつこく聞いてくるのだ。 おばあさんの質問に、もしも「いる」と答えてしまうと、背負っているカゴから足を1本取り出して、お尻に無理やり押し付けてくる。押し付けられた誰かの足はそのまま体にくっ付いて、3本足になってしまう。 逆に「いらない」と答えると、片方の足をもぎ取られてしまうのだ。 子供からもぎとった足はゴルフクラブよろしく背中のカゴに入れて持ち歩き、「いる」と答えた子供に付け足して回るということだ。 無視をして通り過ぎようとしても家までついて来て、しつこく「足いるかい?」と尋ねてくる。 このおばあさんは足売りババという妖怪で、生前は行商を営み、畑で採れた大根などの野菜を背負っては町に売りに出ていた。 そんなある日、悪ふざけが過ぎる小学生たちにおばあさんは突き飛ばされて、足に大きな怪我を負ってしまった。足は良くならず、寝たきり状態となり、身寄りのないおばあさんはそのまま亡くなってしまった。 強い恨みを抱えて亡くなったおばあさんの怨念は、足売りババアとなって小学生たちを狙う様になったという。 足売りババアから逃れる方法は、おばあさんを見かけた時点で別のルートから帰るか、話掛けられた場合には「私は要りませんので、あなたを突き飛ばした××君のところに行って下さい。」と友達の名前を出すことだ。 その夜、名前を出された友達の元へおばあさんは訪ねて行くだろう。 もしも寝ているときに「足いるかい?」という声が聞こえたら、あなたは友達に裏切られたのだ。

がんぼう岩の心霊カレンダー(北海道・遠軽町)

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 がんぼう岩の心霊カレンダー(北海道・遠軽町) 一昔前、北海道遠軽町の某信金がカレンダーを配布した。 しかし、カレンダーに掲載されている地元の名所である「がんぼう岩」の写真が大変にまずいものであった。 噂の心霊カレンダー 岩の壁面には人間の顔が無数に浮かび、昼間に撮影されたのにも関わらず空は真っ赤だった。 心霊写真をカレンダーにしてしまったことに気づいた信金はすぐさま回収を行ったが、回収はままならず・・・・・ カレンダーを実際に見たという人の話では、壁面に浮かんでいるという霊の顔はそれを見る限りでは只の岩の陰影であり、赤い空は夕暮れ時の撮影だからであろう、とのことで、噂に聞くほど異様な写真ではないらしい。 ただがんぼう岩は心霊スポットとしての一面持っており、アイヌの戦場だったとか岩の上から飛び降り自殺があったという話もあり、それなりの曰くはあるようである。

校内放送

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  ある小学校での給食の時間。突然、校内放送用のスピーカーから大音量が流れ出した。 「ウォーンウォーン」というサイレンの様な音に混じって、子供の悲鳴が聞こえて来る。 「助けてー!!」「お母さん!!」「熱いよー!!!」 耳が痛くなる程の大きな音であった。 そして、男児の「死にたくないよー!!!」 の叫び声を最後に、放送はぷつりと途切れてしまった。 教師が放送室を確認すると、鍵が掛かっており誰も入った形跡はない。 放送が流れた日はちょうど小学校が空襲された日で、数十年前の今日、グランドに設けられた防空壕に焼夷弾が落ちて多くの生徒が亡くなったそうだ。 その小学校は煙突が高く伸びている変わった構造をしているため、戦時中は工場と誤認されて空襲されたということだ。 あの放送は時を越えて、空襲中の音声が流れたものなのかも知れない。

さるびあ丸

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  東○汽船という船の会社がある。 その会社の「さるびあ丸」という夜行船ではいつも不可解な出来事が起きている。 その船は竹芝桟橋から伊豆大島などの伊豆七島を永遠循環している。夜になりデッキに出るとそこは本当に不気味だ、真っ暗で真っ黒な太平洋が永遠と続いている。 あかりはポツンと小さく浮いてる月。ただそれだけ。 もちろん竹芝桟橋で乗船した乗客の数と終着の島までに下船した乗客の数が一致するはずだ。それは厳重に数えられている。 しかし去年のある日、下船した客が一人少ないのに気付いた。 もちろん船員は大慌てである。 しかしどれだけ調べてもその一人が誰だかわからない。 失踪したという届けもこない。海に落ちてしまったのかと心配された。しかし、もしそうだとしたら家族や警察から連絡が来るくるはずだが、そういうこともない。 船客が1人少ないという出来事はその日を境に毎日続いた… だから今は乗船客+1で数えられているらしい。

あの世からのお迎え ー お迎えは3人乗りの舟で来る

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 お迎えは3人乗りの舟で来る 現代の日本で死が 最も 身近にある場所は病院です。ヒトの死が日常的にある病院では不思議な体験をする看護師さんは少なくありません。 入院患者の中には尋ねて来る人もなく、一人孤独に死を迎えるお年寄りも少なからず居ります 。そんなお年寄りの元に来るお迎えの話です。 あるご老人の病室の前を看護師が通り掛かると、何やら会話をする声が聞こえます。 「お見舞いに来る人なんて滅多に居ないのに?」と不思議に思って病室を覗くと、ご老人だけがベッドに寝ていました。そのご老人は独り言でぶつぶつと何かしゃべっており、どうも誰かと会話をしている様な話ぶりです。 看護師さんには気づいておらず、ご老人は会話形式の独り言を続けていました。その内容は見舞いに来ない親族に対する愚痴や恨みの類です。 看護師さんはさっき見たことを先輩に話すと、ご老人の多い病棟ではそういう事が時々あって、それは「お迎え」が来ていると教えてくれました。死期が近い人の元には時々お迎えが来るらしく、それも孤独なご老人の元へ来る場合が多いそうです。 天国からの使い、もしくは祖先の霊なのか?何者かは分かりませんが、あの世への旅立ちが寂しいものにならない様にお迎えが来て、先輩曰くそのご老人は長くないという話であった。 翌日先輩の言う通り、そのご老人はお亡くなりました。 三途の川を渡し舟は3人乗り 病院や介護施設では誰か1人が亡くなると不思議と2人、3人とたて続けて亡くなることが多いと言います。 三途の川の渡し舟は3人乗りということで、1人亡くなると定員に達する3人まで続けて死者が出ることが多いそうで、死期が近い人には亡くなったご先祖様や飼っていたペット、そして黒い舟が見えるという人がいるそうです。 そして、3人で舟に乗り、あの世に旅立って行くのだそうです。 「三人乗りの舟」について出てくる会話の例と、会話の傾向はこんな感じです。 pic.twitter.com/xTfecKS4js — Lee / 村上理恵 (@leelinkring) April 24, 2018

チリンチリン -後味の悪い話-

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あるところに貧しいながらも二人仲良く暮らす、母子家庭の親子がおりました。 母親は女手一つで中学生の娘を育てるために毎日毎日、朝早くから夜遅くまで働いていました。 母親は忙しい毎日を送っていましたが、休み の日には出来る限り娘と一緒に過ごすように努め、 親子の時間をとても大切にしていました。 けっして裕福とは言えない家庭でしたが、 娘は母の愛情を常に感じていたので、寂しさや辛さを感じることはありませんでした。 そんな親子の生活が母親の病気によって突如終わりを 迎えました。 日ごろの不養生が祟って か、仕事中に倒れた母親が 医者に掛かったときには余命数カ月という最悪の状態でした。 死期が迫り衰弱した母親が病床で娘にこんなことを話しました。 『 本当に辛くて耐えられなくなったときにはお母さんのお墓の前に来てちょうだい 。きっと助けてあげるから。』 そう言うと、 ひもが付いた鈴のお守りを娘に首にかけました。 そして、 母親は数日後に息を引き取ったのです。 その後、娘は遠い親戚の家で暮らすことになったのですが、そこでは早く出て行けと言わんばかりの酷い扱いを受けました。 また、母を亡くしたショックから心を閉ざしてしまい、学校での人間関係も上手くいきません。 家でも学校でも自分の居場所を失ったのです。 もう本当に耐えられない、と泣き崩れた娘は母の言葉を思い出しました。 学校が終わると直ぐに母の墓前に行き、泣きながら助けを求めました。 『お母さん、私本当にもう耐えられない』 すると首から下げていた鈴のお守りが『チリン』と小さく鳴りました。 “お母さんが天国から降りて来てくれたのね” そう感じた娘は必死になって訴えました。 『もうほんとダメ、もう無理、こんな辛い生活耐えられないよ』 すると『チリンチリンチリン』とさき程より鈴が大きく鳴りました。 “お母さん助けて”と娘が強く願うほどに鈴が強く鳴ることに気が付きました。娘の想いに鈴の音が応じているようです。 必死に願う娘の首でいよいよ鈴の動きは激しくなってきました。 『チリンチリンチリンチリン』 『本当にもうだめ、お母さんのところに行きたい!!』 すると鈴は 天に向かって動きだし、 ひもで 娘の首を強く締め上げながら激しく鳴り響きます。 『チリンチリンチリンチリンチリンチリンチリンチリンチリン』 首が絞まって、薄れゆく意識の中で激しい鈴

魚が消える水槽

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  都内某所の熱帯魚屋さんの、ある水槽では頻繁に魚の数が減ることがあった。 その水槽に展示されていた魚は共食いをするような魚種でもないし、浄化装置に吸い込まれることも考えられない。不思議なのは魚の死骸すら見つけられないことである。 何度魚を補給しても日が経つと数が減る・・・そして補給するの繰り返しであった。 原因はまったくの不明。 日ごろから不可解に思っていた店員が例の水槽を気に掛けていると、ついに魚が消える瞬間を目撃することができた。 ・・・ 魚が消える水槽は壁際に設置されているのだが、突然壁の中から人間の両手だけがふっと伸びて来た。 壁から現れた手は水槽の中まで伸びて来て、泳いでる魚を静か 捕まえた。 包むように魚を捕えた両手は、再び 壁の中に引っ込んで 消えてしまったという。 ちなみに熱帯魚屋が入っているテナントビルには怪奇現象が起こりそうな曰くはなく、幽霊話も語られていない。 件の水槽では今も時々魚がいなくなっている。

雪山の二人

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  冬山登山で山に入ったカップルが下山して来ないという通報があった。 大規模な捜索が開始され、捜索隊が 発見したときには二人寄り添う形で冷たくなっていた。 山から運び出された二人の遺体は安置所へと運搬するため、待機していた救急車に乗せられた。 ・・・・ 運搬中の救急車内でのこと、衣擦れのような物音が遺体の方から聞こえて来る。 気になった救急隊員は車を停めて、遺体がある後部席を覗き込んだ。 すると遺体を固定するバンドが外れており、二人の遺体は手を繋ぐ形で固まっていたのだった。 バンドが外れて偶然に手が絡まったのだろうか・・・・ 再び二人の遺体をベットに固定して車を走らせた。 安置所に到着して、さて遺体を降ろそうかという時のこと、二人の遺体はまたもや手を繋いでいる。 お互いの腕を一本づつ出し合う形でしっかりと手が繋がれていて、やはり固定バンドは外れていた。 このままでは上手く運べないので、二人の手を離そうと試みたが、今度はがっちりと繋がれていてなかなか離れない。 力任せに引っ張れば二人の手を解くことが出来た。しかし、死後も寄り添いたいと願うカップルの気持ちを酌んだ救急隊員は、手は繋がれたままで二人の遺体を安置したのだった。

旧道庁の心霊写真

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  北海道開拓史を象徴する 北海道庁旧本庁舎、通称『 赤レンガ 』を正面から撮影すると心霊写真が撮れるという噂がある。 幽霊が写ると噂されるのは 2階の 窓部分で、心霊写真が撮れた場合には窓枠いっぱいに大きな顔が写り込む。 普通の人間の顔とは明らかにサイズが違うので、人が窓際に立っているのではないことが一目で分かる。 その大きな顔はひげが仙人のように長い男性で、 現代人とは どうも風貌が 異なっており、 開拓時代の人間の霊ではないかと思われる。

死出の遍路

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  弘法大師に縁のある四国八十八箇所札所巡り、遍路に纏わるお話。 とある青年が遍路道の難所付近に建つ、とあるホテルに宿泊していた時のことである。 深夜に突然目が覚めて、何者かの強い気配を感じた。 霊感がある彼は、入口から部屋の中に何人かの霊が入って来たのが分かった。 気にしないように目を瞑っていると、左手が急に重くなり、数人の人間にすがりつかれるような感覚を覚えた。 そして 「お願いします」 絞り出すような声が聞こえたらと思ったら、次の瞬間にはふっと左手が軽くなっていた。 実家に帰って四国での体験を祖母に話すと、 「お大師様の念珠のせいだねえ」とお遍路さんに纏わる悲しい話を教えてくれた。 昔は、死期が近い人や労働力として見なされなくなったご老人を遍路に出して、口減らしをしていたとのことだった。 彼の左手首には祖母からもらったお大師様の腕輪念珠がお守りとして着けられていたので、行き倒れて亡くなったお遍路さんが左手のお大師様に助けを求めてすがって来たのだろうと教えてくれた。 映画の題材、自分を見つめ直す機会として政治家や芸能人が遍路巡りをしたことでも注目を集めた。 お遍路のスタイルは様々で、長期休暇を取っての歩き遍路だったり、学生が夏季休暇で自転車で巡ったり。 現代における遍路をする目的は 願掛けや内省など、生きることに前向きな意味合いで捉えられているが、近代以前はお大師様に付き添われての“あの世への旅立ち”という意味合いもあった。 不治の病を抱えた人や体の自由が利かなくなったご老人が、家族の負担を減らすために今生の別れをして遍路に出たということである。 そういった事情で、遍路の最中に行き倒れて亡くなった方は数知れず。遍路で霊的な体験をしても何ら不思議は無い。 行き倒れたお遍路さんが多く埋葬されたと云う、とある難所では、助けを求めてすがりついて来る幽霊の話が伝わっている。

童謡 さっちゃんの4番

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  「サッちゃんはね~」 のフレーズで始まる童謡サッちゃんではバナナを半分しか食べれらないという歌詞が出てきます。 バナナを半分しか食べられない理由は、さっちゃんは事故に遭って亡くなってしまったからだと云います。 そのエピソードは幻の4番で語られています。 「さっちゃんはね~電車で足をなくしたよ~ だからお前の足をもらいに行くよ~ 今夜だよ行くよ~」 バナナを半分食べたところで電車が突っ込んで来て、はねられて亡くなったということです。 その際、さっちゃんの足はもげて遠くに飛ばされてしまいました。 そして、この4番の歌詞を知ってしまうと、夜にさっちゃんが来て、足をもぎ取っていくそうです。 もし10番までを知ってしまうと、あの世に連れて行かれると云います。 10番の歌詞で語られている電車事故の真相では、さっちゃんは何者かに背中を押されて、線路に落とされたということです。 4番を知ってしまったあなたの元には、1週間以内にさっちゃんが訪れます。 さっちゃんの呪いから逃れるには、枕元にバナナの絵を置いて寝ることです。。。。 ある時期に、さっちゃんのチェーンメールが流行しました。メールを受取った人は5人以上にメールを回すか、寝るときバナナの絵を枕元に置いておく、このどちらかをしないとさっちゃんが来てあの世に連れて行かれるという内容でした。 実際にはさっちゃんは事故で亡くなったという事実はなく、作詞者が幼少の頃に友人だったサチコという女の子の思い出をヒントに作ったとのことです。 歌のモデルとなった女の子は幼少期の阿川佐和子さんだという噂もありましたが、童謡のサッちゃんとの関連はないようです。

紫の鏡

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  「紫の鏡」 という言葉を二十歳まで覚えていると、鏡の破片に全身を刺されて死んでしまうという噂があります。 これは紫の手鏡と、その鏡を大切にしていた女の子に纏わる呪いだと云われます。 ・・・・・ 二十歳を目前にして交通事故で亡くなった女性が居りました。折しも彼女が楽しみにしていた、成人式直前の不幸でした。 彼女は生前、紫色の手鏡をとても大切にしており、いつも肌身離さず持っていました。 亡くなった女性の知人の中には 「紫の鏡なんかを持っているから、鏡に魂を吸われたんだよ」と、心無い噂をする人も居りました。 異変が起こったのは 、彼女の通夜が終わったときのことです。 娘が大切にしていた物も一緒に荼毘に付そうと、両親が紫の手鏡を探しましたがどこを探しても見当たりません。娘の部屋にあったはずの手鏡ですが、家中どこを探しても見つからないのです。 それらから数日して、彼女が楽しみにしていた成人式の日が訪れたのですが、出席する予定であったある女性が突如行方不明になってしまったのです。行方不明となった女性は、紫の鏡について心無い噂話をしていた知人の一人でした。 必死の捜索にも関わらず、知人女性は行方不明のまま。代わりに彼女部屋で発見されたのが紫の手鏡でした。 魂を吸うと言う、紫の鏡の噂は現実のものとなってしまったのです。 その後、紫の鏡は忽然と姿を消し、心無い噂をした人々の元へと現れるようになったと云うことです。 そして、二十歳を迎える若者がこの言葉を覚えていると、紫鏡の呪いが降りかかるようになってしまったのです・・・・ 紫鏡には、元々紫色であったという話と、絵具を使って自分で紫に塗ってしまったという、2パターンの話がありました。 その異なるバージョンでは、大事にしていた手鏡を紫色に塗って、絵具が落ちなくなってしまった女性の話があります。 その女性は母からもらった手鏡を紫色に塗ってしまったことを大変後悔したそうです。 そして彼女は病気を患っていたのですが、治療の甲斐なく二十歳の若さで亡くなってしまいました。 最後の時まで、「紫鏡、ムラサキカガミ、・・・」と呟いていたそうです。 その日以来、「紫の鏡」という言葉に彼女の呪が掛かり、二十歳までこの言葉を覚えていると禍が降りかかるようになったということです。 紫の鏡のほかに「アカイヌマ」や「イルカ島」という言葉を二十歳まで覚えていると、

怪談 赤マント

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怪談 赤マント 放課後の小学校でのこと。 薄暗い夕暮れ時に、誰もいないトイレの個室に入ると何処からともなく無機質な声が聞こえてくる。 「赤いマント着せましょうか?」 「赤いマント着せましょうか?」 もしうっかり“はい”と答えてしまうと、何者かに背中を切り裂かれて惨殺されてしまう。 背中を切り裂かれた被害者の姿は、あたかも赤いマントを着せられたかの様になっている・・・・ 中橋 中尉の赤マントがモデル 赤マントの噂ですが、この都市伝説の誕生には二・二六事件に参加した帝国陸軍の青年将校が関係しているといわれます。 赤マントのイメージを作ったとされる中橋中尉が着用していた将校マントは、裏地が緋色で“中橋の赤マント”として有名でした。 二・二六事件は国家を揺るがすクーデター未遂事件として当時社会に大きな衝撃を与えましたが、その事件の参加者に中橋中尉が居りました。 当時は情報統制が敷かれて、民衆は事件の詳細について殆ど知ることができませんでした。 新聞では青年将校の暴挙という部分のみがクローズアップされて、事件の参加者に赤マントの青年将校が居たということで、人々の関心を集めたようです。 中橋中尉の奇抜な出で立ちから、赤いマントを身につけていた理由は日本刀で人を斬りつけた際に返り血が目立たないようにするためだったと噂されました。 赤マントの都市伝説が最初に流布したのは二・二六事件より少し時代が下った昭和10年代の中頃。当時の噂は、赤マントを着た怪人が子供達をさらって殺す、少女なら暴行して殺すという極めて恐ろしい内容でした。 「二・二六事件」と「赤マントの青年将校」。2つの話が伝播する中で、情報は削がれて変質し、社会的な不安の助けがあって、赤マントと凶悪な殺人鬼が結び付いたようです。 赤いチャンチャンコ 昭和期から綿々と続く赤マントの話ですが、そこから様々な学校怪談が派生しました。 その一つが赤いチャンチャンコの話です。 赤いマントと同じように 「赤いチャンチャンコ、着せましょか?赤いチャンチャンコ着せましょか?・・・・・」と便所に入っている時に聞かれます。 この問いにうまく返答しないと赤いチャンチャンコを着せられたかのように、血まみれになって殺されてしまうということです。 そして「赤いチャンチャンコ、着せましょか?」という不気味なフレーズですが、考案したのは稲川淳二さんだといわれ

三番目の花子さん誕生譚

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 小学校のトイレの三番目の個室、そこで3回扉をノックをして「三番目の花子さん~」と呼ぶと、誰も居ないはずなのに女の子の声で「は~い~」という返事が聞こえくるそうです。 その声の主こそがトイレの花子さんです。 花子さんはおかっぱ頭に、赤いスカートを履いた少女の幽霊だといわれます。1950年頃からトイレの怪談として広く流布していたといいます。花子さんのモデルはトイレの個室で亡くなった女の子という話で ・休日の小学校で遊んでいる時に、変質者に追われてトイレに逃げ込んだが、隠れ先の3番目の個室で殺されてしまった。 ・戦時中に空襲に遭い、トイレに逃げ込んだが焼夷弾が落ちて来て亡くなってしまった。 など、様々なバリエーションが存在しています。 花子さんの都市伝説に多いのが、小学校のトイレ、それも三番目の個室で亡くなっている話です。 東北地方に伝わる話によると、生徒に死亡者が出た戦前の土砂災害が花子さんの噂の起源とされています。 事故があった校庭のトイレは崖に面して建っていましたが、大雨が降ったことで土砂崩れが起こり、トイレの建屋ごと土砂に流されてしまったそうです。 その時、運悪くトイレを使用していた女の子が居て、土砂に押し潰されて亡くなってしまったという話です。 土砂は除かれてトイレも新設されましたが、事故があってからというもの、女の子の幽霊が出るという噂が立ちました。 それも花子という女の子が3番目の個室を使用している時に亡くなったという噂となり、3番目の花子さんのモデルになったという話です。

着物の少女

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 転勤で、東京から地方に引っ越した男が居た。 歳は30代前半、内向的な性格で、休日は家に篭ってパソコンいじったりDVDを見たりして過ごす友達が少ないタイプ。交際相手も居らず、暇を持て余していた。 そんな彼の楽しみは、近くの公園で遊ぶ少女達を眺めることで、ボールや縄跳びで遊ぶ女の子の姿は癒しとなっていた。 休日の夕暮れ時、レンタルDVDを借りて帰宅する途中である。黄昏時の公園で何とも昔気な光景に出会った。 それはお手玉や手鞠をして遊ぶ5人の少女の姿で、みんなきれいな着物を着ていた。 可愛い娘達だな~と見とれていると、少女の一人が男の方へやって来て、いきなり手を引っ張った。 「おじさん遊ぼー」 思わぬ少女の言葉に面を食らった。 「遊ぼー」他の少女も男の手を引っ張る。    男は少女に手を引かれるままに、遊びの輪に加わった。 少女達は全員が姉妹だと言い、みんな色白で整った顔立ちをしている。着ている着物も美しくてまるでお人形さんのようだ。 少女達の遊びは手毬やお手玉や鬼ごっこ、どこか昔気な遊びをしている。男は着物の少女の輪の中で至福の時を過ごしたのだった。 ・・・・ 少女達と遊んでるうちにすっかり辺りが暗くなってしまったので、 「じゃあ、お家の人が心配するから帰ろうか」男が言うと、少女の一人が 「家に帰っても誰もいないからまだ遊ぼうよ」そう言って遊びのを止めようとしない。 「でもみんなのお父さんとお母さんが心配するから帰ろうよ」 すると少女は 「お父さんとお母さんはいないから大丈夫だよ、だからもっと遊ぼう」そう言うときゃっきゃと遊びを再開した。 そうは言うものの、さすがに中年男が夜に少女達と遊んでいてはまずいので家まで送ることにした。 「じゃあ、お嬢ちゃん達の家の近くで遊ぼうか。家を教えてくれるかな?」 すると 「うん、わかった。」少女達は納得して家まで案内してくれた。少女達が案内してくれたのは木造の古い民家で、こんな所に人が住めるのかと疑問が湧く程に古い感じの家であった。 「遊ぼ!遊ぼ!」少女達は男の手を引っ張って家の中に入れようとした。しかし家まで上がってしまったら犯罪者に間違われるので、「じゃあちゃんと帰るんだよ!」と少女達に別れを告げ走って帰ったのだった。 家に帰り、就寝前に今日の素敵な出来事を思い出していた。「楽しかったなあ~」思い出すたびに胸が高鳴る。 ・・・・