連光寺という地名の由来
多摩市連光寺という地名は謎が多く、何時からそしてなぜ連光寺と呼ばれるようになったかは、はっきりしない。連光寺という地名が資料に出て来るのは、吾妻鏡が初出と思われる。
治承5年(1181年)4月25日、小山田三郎重成が御意(命令)に背いたため、恐れをなして屋敷に籠ってしまった。このため、武蔵国多摩郡内の吉富井や一宮、蓮光寺などを含む所領に注目が集まることとなった。(吾妻鏡)
鎌倉時代には多摩地域の領地の一つとして連光寺が存在したことが分かる。『新編武蔵風土記稿』巻98多摩郡の記載には、かつてこの地に「蓮光寺」という寺院が存在し、寺院の名称がそのまま土地の由来になったとしている。そして、連光寺の小名下屋敷に寺坂という坂があり、おそらくそれは蓮光寺がかつて存在した名残だろうとされる。なお、寺坂という地名は連光寺に数か所存在し、やはり蓮光寺へ通じる道であったと推測されている。
下屋敷は村の東側にある小高い丘地形で、平らな頂上部には大小50~60個の墳墓が散在したという。この墳墓こそが蓮光寺の跡だと云われている。しかし、関戸合戦の戦死者の物だとの指摘もあり、墳墓には名前の記載が無いため詳細は分かっていない。
なお、吾妻鏡や新編武蔵風土記稿の記載では「蓮光寺」であるが、 明治15年5月に連光寺村を中心とする地域が明治天皇の御遊猟場に指定された時には「連光寺村御猟場」として草冠がない連の字が使用されている。
連光寺の歴史と地名の由来について【多摩市連光寺】
連光寺の地名の由来と謎
多摩市に位置する連光寺は、古くからその名前の由来に関して謎が多い地です。地名「連光寺」が資料で初めて確認されるのは、鎌倉時代の「吾妻鏡」だとされています。1181年、小山田三郎重成が御意に背き連光寺へ籠城したという記録がありますが、それ以外にも歴史的な資料により、連光寺が古くから多摩地域の一部であったことがわかります。
「蓮光寺」との関連性
『新編武蔵風土記稿』の記載には、かつてこの地に「蓮光寺」という寺院が存在し、これが地名の由来とされているとあります。連光寺に点在する「寺坂」などの地名も、古い寺院の名残だと考えられています。さらに、連光寺の東側には小高い丘があり、かつては50〜60基の墳墓が分布していたとされます。これらの墳墓は蓮光寺の跡とも、関戸合戦の戦死者のものともいわれており、地名の由来に多くの説があります。
明治時代に「連光寺村」として正式登録
連光寺という地名は明治時代以降に正式に定められました。1882年、明治天皇の御猟場として指定された際には「連光寺村」として登録され、この地名が広く認識されるようになりました。この時期に、「蓮光寺」から草冠を除いた「連光寺」が正式に使用され始めたこともポイントです。
連光寺と富澤家
「武蔵国多摩郡連光寺村富澤家文書目録解題」によると、富澤家が連光寺村に住むようになったのは、永禄年間に祖先が武士から農民に身を変えたのが始まりだと伝えられている。
今川氏の滅亡後、富澤家が連光寺に定住し、逃げ散った百姓を呼び寄せて荒れ地を開拓し、水の利便を図ったと伝えられる。
畠山重忠の13代目の孫である為政が初めて富澤の姓を名乗り、為政から三代後の孫である丹下政之とその嫡男の修理政本は今川義元に仕え、永禄3年には当時北条氏の馬飼い場として使われていた地を治めるようになった。
家譜によれば、政本の子である修理忠岐の代に徳川家康が関東に入部し、慶長3年に連光寺郷で検地が行われた際、忠岐が案内役を務めたと記されている。
さらに、八郎兵衛宗重の時代に弟の甚五左衛門が家を分け、以降、連光寺村で本家に次ぐ家格を保つようになった。富澤家は修理忠岐以来、代々連光寺村の名主を世襲し、幕末までその地位を保ち続けたという。
富澤家の出自 後北条氏の領地:赤坂駒飼場を奪ったか?
明治20年頃に作成されたと思われる連光寺村誌には村の歴史を下記のように記している。
北条氏はこの地域の山野を牧場として軍馬を飼育し、陣屋を構えて牧士を置き、これを「赤坂駒飼場の陣屋」と呼んでいた。永禄3年(1560年)の春、今川氏の家臣である富沢修理政本が500人の兵を率い、相州の茄矢倉沢を出発して八王子や日野を経由し、多摩川の北岸にある青柳島に陣を構え、駒飼場の陣屋を攻撃しようとした。守将である飯尾監物、深沢新蔵、荒川外記や牧士の別当波多杢、冨永弥六らが守りに立ち向かう中、政本は夜に集結して筏を組み合わせて橋とし、川を渡って陣屋を急襲して焼き払い、敵兵を敗走させて小田原に追い返した。そして、政本は陣をここに移した。
しかし、その年の5月19日、今川氏が織田氏との戦いで敗れ、義元が桶狭間で自害したという凶報が駿河から届き、政本は悲嘆しながら陣を解いて駿河の城に戻り、復讐を誓って報告した。しかし、採用されなかったため、政本はこの地に戻ることを断念し、逃散した人々を呼び戻して、家臣である小山與次に山野の開拓を命じ、そこで土着させた。(連光寺村誌)
後北条氏が小田原・八王子・川越を結ぶ領国体制を完成させていた時期に、その一部である連光寺の赤坂駒飼場を長期間占領するのは不可能と考えられている。このため、富澤家の出自の話は、後北条氏が小田原城に関わるという単純な歴史的理解に基づいた、近世に入ってからの創作であろうと考えられる。
連光寺の開発が武士団によるものだという確証はないが、富澤家が主張する歴史や伝承から推測すると、他の地域から移住してきた武装集団が土着して開発に関わったと考えられる。富澤という姓は相模にも見られ、また、この地域の有力な家系の一つであった城所氏は小田原の城所村から来たと伝えられている。つまりは現在の神奈川県から流入した武士集団である可能性が高い。
慶長3年の検地には「玄蕃」の名で分付主として登場することからもそれがうかがえる。こうした家々が連光寺に定住し、農業経営を行う一方で、兵農未分離の状態であったことは、「修理」「玄蕃」「将監」「隼人」といった名の分付主が存在する点からも推測できるとされる(近世前期南関東における 家の成立と地親類 武蔵国多摩郡連光寺村)。
富澤家と連光寺の開拓史
富澤家の起源と役割
「武蔵国多摩郡連光寺村富澤家文書目録解題」によると、富澤家は戦国時代の武士から農民に転身し、連光寺の開拓と農地整備に貢献しました。特に、畠山重忠の子孫である富澤家の祖先・政本がこの地に定住したのは、今川氏滅亡後とされています。徳川家康が関東に入部した際には、連光寺での検地の案内役を務めた記録もあり、連光寺村の発展において富澤家は重要な役割を果たしました。
赤坂駒飼場の歴史と富澤家
富澤家の歴史には「赤坂駒飼場の陣屋」にまつわる伝承も含まれています。1560年に富澤政本がこの地にあった北条氏の馬飼い場である赤坂駒飼場を攻撃し、陣を構えたという伝説がありますが、これは後世の創作の可能性が指摘されています。ただ、これにより、現在の連光寺地域に多くの伝承が残るきっかけとなり、村の歴史として後世に語り継がれています。
連光寺下屋敷に首塚と胴塚有り ー忌み地と噂される所以か?ー
赤坂駒飼場古戦場
東京府西多摩郡南多摩郡北多摩郡名所旧蹟及物産志によると下屋敷には首塚胴塚と呼ばれる塚が存在し、地面を掘ると古刀や古瓦が発掘されたという。また、赤坂駒飼場では誰の物かは分かっていないが50~60個の墳墓が散在したということから、大規模な戦いが行われたのではないかと言われている。
永禄3年(1560年)に富沢修理政本が北条氏の赤坂駒飼場を急襲したという話は創作と判断されることから、下屋敷の墳墓や古刀は分倍河原合戦に関わる物と考えられる。
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赤坂駒飼場(右の丘) |
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