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龍泉洞(岩手県下閉伊郡岩泉町)付近の滝裏で見た即身仏

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これは、とある男性が体験した実話である。 岩手県下閉伊郡にある龍泉洞から、さらに山奥へ北上して渓流釣りをしようとしたときのこと。男性は、滝の裏にある洞窟で、言葉を失うような「あるモノ」を目撃したという。 異世界の入り口か、古めかしい村の住人たち 釣り場を探し求め、龍泉洞付近の山道を車で走らせていたときのことだ。気がつくと、いつの間にか見覚えのない小さな村に迷い込んでいた。 その村には、牛馬を同じ建物で飼う「南部曲り家(まがりや)」風の古めかしい茅葺き屋根ばかりが並び、住人たちの服装も時代錯誤なほど古臭い。車を降りると、村人たちは珍しそうにジロジロとこちらを凝視してきた。 川の様子を確認しようと橋の上から覗き込むと、子供たちが川遊びをしている光景が目に飛び込んできた。驚いたことに、子供たちの足元には30センチを超えるような大イワナが、不自然なほど群れをなして泳いでいる。 ほぼ全裸の子供たちは楽しそうに騒いでいたが、こちらの視線に気づくと、一斉に「わーっ」と声を上げ、まるで蜘蛛の子を散らすように逃げ去ってしまった。 川で遊ぶ子供たち。その足元には大イワナがたくさん泳いでいた。 軽トラに乗る老夫婦 さらに釣り場を探すため、村を離れて山側へと歩いていくと、車が1台やっと通れるほどの小さなトンネルに突き当たった。 それは重機を使った形跡がなく、まるで昔の人が手掘りで作ったかのような荒々しい岩肌のトンネルだった。すると、暗闇の向こうから1台の軽トラが走ってくる。荷台には農作業帰りと思しき老夫婦が乗っていた。おじいさんがハンドルを握り、おばあさんは荷台に腰掛けている。 すれ違いざまに「こんにちは」と挨拶をすると、おばあさんは無言のまま、こちらに小さく会釈を返してくれた。 軽トラを見送った後、トンネルを抜けて向こう側へと出てみる。――しかし、そこは完全な行き止まりの崖だった。 (あの軽トラは、一体どこから来て、どこへ消えたのだろう……?) 釈然としない奇妙さを覚えながらも、男性はさらに山奥へと分け入っていった。 小さな滝と、赤い僧衣の即身仏 細い川筋を見つけ、上流へと向かって川沿いを歩いているときだった。ふと崖の下に目をやると、錆びだらけになって潰れた軽トラが転がっているのが見えた。 (まさか、さっきの老夫婦の……?) 不吉な考えが頭をよぎったが、「そんなわけがない」と自分に言い聞...

伊豆諸島の海難法師

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島の忌の日 伊豆諸島では、正月二十四日または二十五日を「忌の日」とする習慣が広く行われている。この習俗は島々によって多少異なり、名称や伝説、しきたりにも違いが見られる。 伊豆大島 大島では泉津(せんず)がこの習俗の本場とされている。ここでは「日忌様(ひいみさま)」と呼び、毎年一月二十四日を忌の日とする。この日、飼い牛は山間部の海が見えない場所に連れて行き、牛小屋は覆い隠される。家々では夕方になると堅く戸を閉ざし、節穴や隙間を布や紙で塞ぐ。さらに外には網を張り、鉈や鎌を置き、入口にはにんにく、ヒイラギ、トベラの枝を挿し、菰(こも)をかぶせる。 神棚には二十五個の餅を供え、家族は静かに過ごす。この夜、誰も外に出ず、物音を立てることすら禁じられる。言葉も交わさず、夜明けを待つ。もし外を覗いたり音を立てたりすると、不幸な出来事が起こると信じられている。 翌朝二十五日には戸を開け、普段通りの生活に戻るが、この日は村外の人を一切村内に入れない。仮によそ者が入った場合、家に招き入れることは許されず、袋をかぶせて頭を叩き、追い返される。その際、帰路も来た道を通らずに帰らなければならない。これを破れば「海難坊」または「カンナンボー」という災いが訪れるとされている。 この風習には以下のような伝説がある。 25人の若者 昔、泉津村に暴虐な代官がいたため、村民二十五人が計画し、夜陰に乗じてこれを殺害。丸木舟に乗って利島へ逃れたが、上陸を許されず、さらに神津島を目指したが上陸を許されなかったとされる。各々の島の人々が、25人の上陸を許さなかった理由としては、幕府から処罰を受けることを恐れたためと、殺された代官の亡霊が追って来たので祟りを恐れて明かりを消して戸を閉ざしたためとも伝えられている。 また別の伝説では、若者二十五人が暴風雨の夜に代官を討ち、丸木舟で海上へ逃げたが、風波に呑まれて全員溺死。その亡霊が毎年二十四日の夜、五色の旗を掲げた舟に乗って現れるという。この25人の若者の霊が「日忌様(ひいみさま)」で、25個の餅を作り追悼する儀式がこの風習とされる。 利島 利島でも大島と同様の理由で、一月二十四日を忌む習慣があり、これを「カンナンボウシ(海難法師)」と呼ぶ。家々ではトベラとノビルの枝を家の入口に飾って、外出や海を見るのを忌む。 新島 新島では「海難法師(カンナンボウシ)」と呼ばれるこ...

自衛隊の都市伝説 硫黄島の砂

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自衛隊の都市伝説 硫黄島の砂 硫黄島とは 小笠原諸島の南方に位置する硫黄島。この島は、太平洋戦争末期において日米両国で数多くの戦死者を出した激戦地として知られている。 現在は自衛隊の基地が置かれており、慰霊訪問や特定の工事を除き、民間人の上陸は禁じられている。 多くの命が失われたこの島は、国内でも屈指の心霊スポットとして有名である。実際に上陸した民間人や島で勤務した自衛官の間では、多くの幽霊話が囁かれているという。 自衛官が語る怪談話 硫黄島では、戦没した日米両国の兵士の霊が現れるとされる。夜になると、兵士の霊が空中を行進したり、寝ている人を起こして屋外へ連れ出そうとするなどの心霊現象が報告されている。 特に多く語られるのは、水を求めて彷徨う兵士の幽霊だ。冷たい水を欲し、生きている者の前に現れるという。戦時中、島では熱帯の暑さと火山の地熱により地下水ですら湯立つほどの環境だった。そのため、戦死者が最後に口にした水は熱湯のようだったと言われる。 こうした話を受け、自衛官たちは霊に遭遇しないように日々慰霊碑へ水を供え、部屋の窓際にも水と塩を置く習慣を守っているという。 砂の持ち帰りは禁止 硫黄島に関する規則として語られるのが、「砂を本土に持ち帰ってはいけない」という決まりである。実際、自衛官たちは島を離れる際、航空機に乗り込む前に上官から「砂を払え」と指示される。靴底に付いた砂粒一つも残さず、念入りに落とすよう命じられるのだ。 噂によれば、砂を持ち帰ると兵士の霊が枕元に立つと言われている。瓶に砂を詰めて持ち帰った隊員のもとには、血まみれの兵士が現れたという話もある。また、いたずらで他人の荷物に砂を入れた結果、その人が霊障により事故に遭ったという逸話も伝えられている。 砂を持ち出し禁止の理由 砂の持ち帰りを禁じる理由には、いくつかの背景がある。 まず、防疫上の問題が挙げられる。戦時中に米軍が島に持ち込んだ外来種のアリの侵入を防ぐためである。また、倫理的な観点もある。硫黄島の砂には多くの戦死者の血が染み込み、人骨が目に見えない形で混ざっている可能性があるため、持ち帰ることは不適切とされるのだ。 さらに、硫黄島は白と黒のコントラストが美しい「鶉石(うずらいし)」を産出することで知られる。石の収集家なら一度は手にしたい逸品であるが、霊障を恐れて持ち帰ることをためらう人もいるとい...

憑き物「トゥビョウ」(中国地方から四国の一部)

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トゥビョウ ― 中国地方から四国に伝わる憑き物 中国地方や四国の一部には、憑き物の一種「トゥビョウ」にまつわる不思議な話が伝わっている。特に山陰地方の石見では、「トゥビョウ持ち」と呼ばれる者がいるとされ、村人たちの間で語り継がれている。 トゥビョウとは非常に大きな蛇で、主に土蔵の中に住むと言われる。この蛇を持つ家は、不思議と富を得ることができ、「あそこの家はトゥビョウ持ちだから裕福なんだ」と噂される。しかし、どれほど裕福であっても、村人たちはトゥビョウ持ちの家とは深く関わらない。結婚はもちろん、祝い事や弔事にも一切参加しない。特に金銭の貸し借りは絶対に避ける。もし返済が遅れると、トゥビョウが災いをもたらすと信じられているからだ。 トゥビョウの姿と謎 トゥビョウの姿は地方によって異なる。例えば、伯耆地方西部では、首に黄色の輪がある蛇だとされるが、石見の浜田地方では白い輪を持つ蛇として語られる。また、備後地方の北部では、トゥビョウは小さな蛇のようだが、体には多彩な色があり、非常に奇妙な生物とされる。一方、備後と備中の境界付近では、トゥビョウは鰹節のように短く、胴が太い姿だとされる。このように、トゥビョウの形状や色についての伝承は地域ごとに異なり、その実態は今なお謎に包まれている。 トゥビョウを祀る習慣 トゥビョウを持つ家では、小さな甕にトゥビョウを入れ、それを地中に埋めて祠を建てる。そして、時折その蓋を開け、酒を注いで機嫌を取る。酒はトゥビョウの大好物とされ、これを怠ると怒りを買い、災厄を招くと恐れられている。 四国に伝わる「トンボガミ」 瀬戸内海を挟んだ四国では、トゥビョウに似た存在として「トンボガミ」が語られる。トンボガミは「土瓶神」とも書き、土製の瓶に納められて祀られることが多い。その姿は蛇に近いが、人目を避けるように振る舞い、憑依する際には姿を消すとも言われる。この神を祀る家でも、トゥビョウ持ちの家と同様に金運に恵まれる一方、周囲から忌み嫌われることがある。 トゥビョウをめぐる逸話 江戸時代末期、讃岐地方のある村で河川工事をしていた男が、トンボガミを祀る家に宿泊した。ある日、留守中に台所で湯が沸いているのを見た男は、床下の甕を「茶甕」だと思い込んで蓋を開けた。すると、中にはトンボガミが蠢いていた。驚いた男は熱湯を注ぎ蓋を閉じて立ち去った。その後、家の者から「長年...

兵庫県尼崎市のT駅にまつわる噂

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兵庫県尼崎市のT駅にまつわる話 兵庫県尼崎市にあるJR福知山線のT駅では、人身事故がよく発生する。 特急列車が通過する際、ホームから人が飛び降りる。列車が通り過ぎた後には肉片が散乱していることもあるそうだ。 この駅では時折、F家のケーキ箱を持った人が突然自殺することがあり、通勤客を驚かせるという話もある。それもケーキを持った状態で笑いながら飛び降りるというのだ。 そして、この自殺者たちは多くの場合、近くにある大手メーカーの社員だとされている。 家族へのお土産と思われるケーキを手にした男性が電車に飛び込むという状況は不可思議だが、この駅では稀に起こるという。噂によれば、お土産のケーキの甘い香りが飛び込み自殺を誘発しているのだという。 さらに、T駅の近くには製菓工場があり、駅周辺には甘い匂いが漂っている。会社でのストレスに疲れた通勤客たちは、この匂いを嗅ぐたびに憂鬱な気持ちになるとされている。 心身ともに疲れ切った会社員たちは、甘い匂いに誘われるようにしてふらっと特急列車に飛び込むことがあるそうだ。駅の近くにはお地蔵様が立っており、ダイエーがある。 この話は信じがたい部分もあるが、不思議な噂として語り継がれている。

蟹満寺 蟹の恩返し(京都府木津川市)

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蟹満寺と蟹の恩返し伝説 京都府木津川市にある蟹満寺は、1300年以上前に作られた本尊・釈迦如来像(国宝)と、「蟹が蛇を退治した」という縁起で知られる寺である。 昔、この地には心優しい娘と年老いた父親が暮らしていた。娘は家事や裁縫をこなし、日々仏心を忘れることなく経を唱えるような敬虔な人物であった。 ある日、村の子どもたちが大勢の蟹を捕まえていじめている場面に出くわした娘は、蟹たちの姿を哀れに思い、自分の菓子を与える代わりに蟹を逃がしてやった。 その後、父親は田んぼの近くで蛇が蛙を飲み込もうとしている場面を目撃する。蛙が悲しげな声を上げるのを聞き、父親は気の毒に感じた。そこで蛇に向かい「その蛙を助けてくれるなら、代わりに私の娘を嫁にやろう」と冗談交じりに言ったところ、蛇は蛙を放して姿を消した。 ところがその夜、異様な雰囲気を纏った若者が家を訪れ、「私は昼間の蛇だ。約束通り、娘を嫁に迎えに来た」と告げた。驚いた父親は「娘にもまだ話しておらず、準備もできていない。2~3日待ってほしい」と言い、若者を帰らせた。 その夜から家族は不安に包まれ、娘も途方に暮れた。 そして約束の3日が経過した夜、両親は娘を一室に閉じ込め、戸締りを厳重にした。娘はひたすら経を唱え、必死に祈り続けた。深夜、戸を叩く音と「開けよ」と迫る声が響く。騙されたことを悟った蛇は本来の姿に戻り、家を取り囲んだ。 その時、外で激しい争いが始まった。両親は恐怖に震えたが、娘は祈りをやめなかった。 やがて夜が明け、外は静寂に包まれた。戸を開けると、巨大な蛇が力尽きて倒れており、その周囲には無数の蟹の死骸が散らばっていた。かつて娘が助けた蟹たちが、恩返しのために駆けつけ、娘の危機を救ったのである。 蟹たちの亡骸を丁重に埋葬し、その上に堂を建てたのが蟹満寺である。この堂には聖観音像が安置されている。 この話は古くから様々な文献に記載されており、大正9年には劇として上演され、全国的に有名な伝説となった。また、国宝である紫銅製の釈迦如来像(高さ八尺)は、もともと光明山寺の本尊であったものを蟹満寺に移したと伝えられている。 ・参考文献:伝説の寺々 田中緑紅 著 昭和19

春日大社の神鹿殺しー石子詰の死刑は俗説か(奈良)

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奈良・春日大社の「石子詰め」伝説 奈良・春日大社には「神鹿(しんろく)を殺すと石子詰(いしこづめ)という生き埋めの刑に処される」という伝説が語り継がれている。この話は観光ガイドが修学旅行生に語ることも多く、耳にしたことがある人もいるだろう。 しかし、石子詰の伝説は事実ではないとされている。興福寺や春日大社に伝わる記録をもとに検証すると、その多くが俗説や誤伝に基づいていることがわかる。 春日大社の神鹿と少年 三作の鹿殺し(十三鐘と石子詰)の話 昔、十三歳になる三作という稚児が手習いをしていたところ、春日の鹿がやってきて手本の紙を食べてしまった。三作が怒って卦算(けさん:文鎮のような長い木)を投げつけたところ、運悪く鹿の鼻に当たり、鹿は死んでしまった。この神鹿を殺した罪は重く、三作は石子詰めの刑に処されることとなった。興福寺の菩提院大御堂の東側に一丈三尺(3m程度)の穴が掘られ、死んだ鹿と抱き合わせにされて生き埋めにされた。 この刑が執行されたのは、夕方の七つ時から六つ時の間であったため、菩提院大御堂は「十三鐘」という名がついたとされる。 三作の母は息子を探しに来て、嘆きながら墓に花を供え、紅葉の木を塚に植えた。このことから「鹿と紅葉の取り合わせ」が始まったと言われている。紫野の人々はこの話を実しやかに語り継いでいる。 お堂の前には、三作の石子詰めの跡とされる土塚のようなものが残っており、母が植えたとされる紅葉の枯れた株が横たわっている。 (大和伊勢南紀旅の栞 大軌参急旅行会著・昭和11 ) 鹿殺しによる石子詰の刑ー多くの資料では懐疑的 ■菩提院 大御堂という。本尊無量寿仏・稚児観音を安置す。この寺に十三鐘というありしが、現はこの鐘を南円堂の傍らに移す。 むかしこの所に十三の童子を石子詰にせしというは妄説なり信ずべからず 奈良名所袖鑑 金沢昇平 編・明治24年 ■本尊無量寿仏 俗伝十三の児童鹿を殺しこの境内にて石子詰にせしと云は妄説なり信ずべからず 平城坊目遺考 下 金沢昇平 著・1890年 ■(若提院)は俗に十三鐘といふ。大湯屋の西南にあるり。堂は天平年間の建築にして (中略) 俗に小兒鹿を殺して石子詰にあひしといふ古跡はこの處なれどもその事は妄誕(言説に根拠のないこと)なり。 ここを十三鑑といふそ興福寺の僧侶の春日神社へ動行にゆきときを報せん爲、朝の七ッ時と六ッ時と...