新城島のザン(ジュゴン)神社・頭骨を持ち出した者は発狂する

新城島のザン(ジュゴン)神社・頭骨を持ち出した者は発狂する

新城島は沖縄県の八重山郡竹富町にある、上地島と下地島の2島から成る島である。

人口10人程度のこの島に、立ち入ると災いが降りかかると云われる東御嶽(アーリィウタキ)、通称ザン(ジュゴン)神社または人魚神社がある。

鳥居の奥へは関係者以外は立ち入り禁止、カメラによる敷地内の撮影も禁止されており、鳥居の横に「島の住民以外立ち入り禁止および写真撮影禁止」の看板がある。


祟りの源泉・ザンの頭骨




[霊薬・ジュゴンの肉]

上地島と下地島の2島から成る新城島。

1778年(明和8年)に起こった「明和の大津波」で、1つの島が2つに離れたと言われており、両島が離れているゆえに地元では通称「パナリ」と呼ばれる。

その昔は、新城島の周辺海域にはジュゴン(八重山での呼び名は「ザン」)が生息していた。

人魚と同一視されていたジュゴンの肉は不老不死や安産の霊薬と珍重されて、琉球王府時代には新城島の住人はジュゴンを塩漬けや干し肉を人頭税として納めていた。

捕獲したジュゴンは、皮と肉は煮て日光にさらし、王に献上、そして頭蓋骨など骨は東御嶽、通称ザン神社に祭ったという。


ザン神社の入り口・これより先は立ち入りも撮影も禁止(Wikipedeiaより)


[乱獲によるジュゴンの減少と豊漁への祈り]

ジュゴンは権力者に献上される特別な食料であり、首里城発掘調査からその骨が発見されている。終戦後の食糧難の時期にダイナマイト漁などで乱獲されて、もともと数が少なかったジュゴンは今では姿を消してしまった。

琉球王朝時代、ジュゴンの肉は人頭税であったので、その捕獲に島民は必死になっていた。毎年多くの人手と時間を掛けてジュゴン漁を行っていたのであるが、それほど生息数は多くないので捕獲には苦心したという。

そして、ジュゴンは津波を引き起こす、もしくは津波の到来を予言する霊魚とも考えられていたので、その祟りの防止と豊漁を祈願して骨を島の東御嶽に奉ったということだ。

東御嶽での祭りは島民、その中でも本土の神職にあたる神人(かみんちゅ)が執り行い、一般の島民も聖地と考えられている場所には立ち入れないという。

当時の八重山地方の人々への人頭税の負担は相当厳しく、税の負担を逃れるために、あえて自分の手足を切る者や、妊婦殺しや赤子殺しのようなことが行われていた。

薩摩藩からの搾取に苦しんだ琉球王府は八重山地方の重税を課した。琉球王府は八重山の開拓によって人民の負担を軽くしようと試みたのだが、奇しくも人魚 (ザン)が予言をしたという明和の大津波、そして飢饉と疫病の流行によって計画は泡に帰し、島民の貧窮は明治期まで続くことに。

部外者が立ち入れば時に死をもたらすというザン神社の祟りとは、ジュゴンの祟りではなく、重税と貧困に喘いだ島民の苦しみによるものかも知れない。


[記録に残るザン神社の祟り]

博物学者の黒岩 恒(くろいわ ひさし、1858-1930年)は沖縄の生物研究で功績を残しており、尖閣諸島の命名者としても知られている。

民俗学にも造詣深い黒岩が新城島に調査に行ったときの話である。


【新城島の御嶽にはジュゴンの頭骨が置かれていたが、随行者、案内者ともにこの島の博物調査に訪れた黒岩は、頭骨が欲しくてたまらず、ついに案内者に密かに盗ませてしまった。


新城島を引き上げて、黒島にわたると、先の案内者が俄(にわ)かに発狂して、黒岩は無事であったが、随行者の一名に刃物で重症を負わせるという事件になった。

新城島では内地の訪問者がジュゴンの骨に興味を示し盗み出すのに閉口して、石垣に骨を埋め込んでしまった。


『角川日本地名大辞典47沖縄 県』の「新城島」の項には、「現在でも上地島にはかつてジュゴンの大漁を祈願したという人魚神社がある」と書いてある。』】

東京人形倶楽部より


黒岩の話からすると"島の住民以外立ち入り禁止”の意図は、部外者によるジュゴンの骨の盗難防止にあり、ご神体であるジュゴンの骨の盗んだ者に降りかかる祟りを防止する意味もありそうだ。 

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