生き埋めとなった亀の祟りか
さてその後復興事業が旺盛に営まれるやうになり、この池なども無論埋められて殆ど跡をさへ止めぬやうになつたが、池の埋立のあつた頃から、さして老年でもないのに寺の住持が急死してしまふ、続いて附近の住民には軒並に死人が出来て、不幸が蔓こる、区画整理で廣がつて電車道となり、さまで危険といふ程の場所でもないのに屡々怪我人が出る。
そこで周囲の人々は考へざるを得なくなった。昔はあの池に幾百千の亀が棲み、朝夕法華讀誦の勤行を波のまにまに聞いてみた筈である、それが却火の呪ふべき災厄に罹って遂に生埋めとなつた。
亀とは見知り越しの人々ながら、慈悲の心を起す隙がなかつたのである。
察するところこれは亀の祟りからかうした不吉が表れるのであらう。遅いけれども萬一、生きて居る亀が地下に埋められてゐまいものでもないと、町内の青年團や在郷軍人などが主となり、その他の人々が集まつて池を掘り始めると、亀の死骸が無数に出て来た。
生きて居るかも知れぬといふのは我々の人情である。そこで右の亀の霊を祀り、亀塚を設けて供養をしようとて澤山の供養塔婆の手向が始まつた。自今奔走中といふからもう間もなく亀塚建立も見られることであらう。ゆかしい話である。(市電清正公前下車)
(横浜の伝説と口碑)
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| 神奈川横浜二十八景之内 戸部村ヨリ野毛村ニ至の間戸部羽沢切通しまでを見て并不動山伊勢社其山向海上生麦の方を遠景之図:移転前の常清寺が見える |
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| 亀の供養卒塔婆 |
一匹だけ生きた亀が
関東大震災で清正公堂が焼失した後、境内にあった池を埋めて整地が行われた。池の地固めには東京大相撲の力士が呼ばれ、その中には出羽ヶ嶽文治郎(でわがたけぶんじろう/身長207㎝体重203㎏という巨漢力士)がいたようである。
その後、5~6年経って再建するために池を掘り起こしたところ、甲羅の焼けた亀が一匹出て来た。おどろくべきことに生きていたそうだ。亀は、かわいそうだからとお酒を飲ませて野毛山の行水場(現在の野毛山の展望台の近く)に放されたとのこと。
亀は、震災の後5~6年もの間、地面の中で生きていたことになる。これには「清正公さま」「お淨行さま」のご利益があったのだろうか・・・。(はまれぽ.com)
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| 嘉永7年(1854年)横浜村外六ヶ村之図・吉田新田に常清寺が記載されている |
遊女の供養寺としての役割
常清寺は江戸時代前期の延宝4年(1676年)、吉田新田を開拓した豪商・吉田勘兵衛良信が、身延山第31世・日脱上人を迎えて建立された。周辺の低地や沼沢地(吉田新田などの埋立地帯)に位置したことや、水路・ドブなどに囲まれた環境から俗称「ドブデラ」と呼ばれることがあった。
吉田新田の開墾と人柱の噂
萬治2年(1659年)に吉田家によって吉田新田が開墾された。
完成した新田は、現在の都橋あたりから蓬莱橋あたりにかけて、大岡川を挟んで一面に広がっていた。現在の吉田町から蓬莱町あたりにかけて築いた堤防も、どうしても波によって壊されてしまい、田畑の方へ海水が何度も押し寄せてきたため、その修繕にはかえって苦労したという。
海水を防ぐために「堤下(ていした)」といって、堤防と田畑の間に一筋の沼を残しておき、そこに押し寄せる海水をせき止めるように工夫したのです。 開墾が完了して常清寺を建立したのと同時に、山王権現と稲荷の社を建てました。それが後に日枝神社と改称されたものです。俗に「三の宮」と呼ばれ、堤防を築くために人柱となった「お三」という人を祀ったものだという言い伝えが残っていますが、それは大方、物好きなおもしろ半分の人たちによる作り話にほかなりません。吉田家の記録には一切そのようなものは残っていない。
吉田家の先祖も度重なる堤防の決壊には大変心を悩ませたに違いないが、法華宗の熱心な信者であったため、一心に身延山へ祈願を込め、ついにその望みを果たしたと伝えられる。その祈願の証拠を常清寺の前にある塔の下に埋めたということは確実に記録に書き残されているが、おそらくそうした出来事からも「人柱」の噂話が生じたと推測される。
日枝神社ももとは常清寺が所有するものであったが、明治維新の際に神仏分離令が出て神仏混淆が廃止されてからは、別に神官が置かれるようになった。
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| 横浜村近傍の図 |
遊女供養
常清寺の対岸の太田屋新田はさらに埋め立てられて、外国人居留地が拡張とあわせて港崎遊郭が設けられた。亡くなった遊女の遺体を常清寺に持ち込まれて供養されたという。外国人からの身請けを拒んで自害した岩亀楼の遊女・喜遊も常清寺で火葬および埋葬されたという。
吉田新田との間には吉田橋が架けられ、太田屋新田側の居留地と外側を区切る関所が設置されたことから、居留地側は「関内」と呼ばれるようになる。
その後、1866年11月26日に近くの豚肉料理店から出火した「豚屋火事」で港崎遊郭が全焼し、その跡地は1876年に横浜公園へ姿を変える。さらに1929年には横浜公園平和野球場が建てられ、1978年にはその改築によって現在の横浜スタジアムが開業する。
(参考文献:横浜開港側面史)




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