太田の人喰いの森 日の出町・子神社付近は元々は禁足地(神奈川県横浜市中区日ノ出町)

 太田の人喰の森

今の中区日ノ出町一帯は、昔は太田の陣屋の原と云つた。


野毛浦続きの入江であつた川岸のほとりには、一むらの森が鬱暗く茂つてみた。

 時折の村の子供らが蝉などを追つてこの森の中に入ると、極つて不思議にも大熱往来してひどく懊悩(もだえ苦しむ)するのであった。それが因となって死ぬ者さへ出たのである。


こうしたことから土地の者も恐れて神おこりだといひ、果ては人喰の森といふやうになった。


然し日に月に開け行く横浜の繁栄は、いつ迄も人喰いの森を怖れては居らず、この森も悉く伐り倒してしまい、只一株の玉楠のみが残され、後には今の子の神社境内へ移し植えられたが、大正の震災で焼かれてしまった。この頃それでも若芽が萌して来たとも聞えて居る。

  世はさまざまに変わってゆくもの、昔は人喰ひ森と怖れた場所も、今は魔性の化物があらはれて折々は人の生血を啜らんとして居るとか、しかもこの化物は至つて美しい化性だと語る人があつた。(市電日の出町二丁目下車)

(横浜の伝説と口碑 上(中区・磯子区))



太田の陣屋のタヌキ

黒船の来航によって夢から覚まされたかのように、300年来の平和な時代が、欠伸一つする間もないほどのあっという間に世の中が変わり、文明開化の風が縦横無尽に吹き荒れて、みるみるうちに横浜が開港すると、外国人がやって来て、商館が建ち並び、見たことも聞いたこともない外国の産物が平然と運び込まれてくるようになりました。


言葉では言い表せないほどのすさまじい大変革だったため、最初のうちは、「毛唐(外国人)どもに我が神聖な日本(神州)の土地を踏ませるなど、神国の恥だ」などと、行き場のない浪人者たちが、目に入る限りの外国人をばっさりと斬り殺しては得意がっていることもありました。   


しかし、月日が経つにつれて各国から守備兵が派遣され、足並みをそろえて軍事訓練を行うようになり、さらにその優れた武器の数々を目にすると、いくら威張ってみたところで、日本特有の大小の刀や、槍・長刀では、最新の大砲や小銃(大筒・小筒)には到底太刀打ちできないことがわかりました。そこでついに意地を張るのをやめ、負けじとばかりに日本側でも軍事訓練を開始することにしたのです。その訓練を行った場所が、太田の原(現在の中区日の出町の一帯)であり、福井藩主・越前公(松平家)の陣屋の広場なのでした。


この様子を見物しようと、人々が黒山のように群がった。しかし不思議なことに、一日の調練が終わり、人と馬が穏やかな夢路につく真夜中になると、この陣屋の原っぱで、相変わらず調練の騒々しい音が響き渡るのであった。一体誰の仕業なのだろうかと、不審に思って眉をひそめる者は多かったが、かといってその理由を詳しく知る人は誰もいなかった。


やがて越前公が陣屋を引き払い、その跡地に慶応3年、フランス式の騎兵・歩兵・砲兵からなる「三兵伝習所」というものができたが、これもわずかな期間で江戸に移されてしまい、建物だけがそのまま残されていた。そしていよいよ明治政府が徳川幕府から一切を引き継ぐことになり、役人たちが陣屋の引き渡しを受けるための下見(下検分)に出かけた。すると、留守番をしていた大男が廊下伝いにやってきて役人たちを出迎え、陣屋内を案内してから庭に出た。


ところが、そこに居合わせたのは一頭の大きな犬で、この犬はその留守番の男を見るやいなや、激しく吠えかかって噛みつき、ついにその男をねじ伏せてしまった。こうなっては正体を現さざるを得なくなったのか、男はたちまち大きな狸へと姿を変え、犬と互いに噛み合ったが、とうとう狸は噛み殺されてしまった。


役人たちは呆然とした。「そうか、長年の間、真夜中に聞こえていた調練の音は、こいつの仕業だったのか」。「もともと狸は音を真似るのが得意だと聞いてはいたが、まさかこれほど見事に人間に化けていたとは誰も気づかなかった」と、役人たちは腕を組んでしばらく考え込んだという話である。


この狸は、陣屋の天井や襖などに大きな草鞋(わらじ)の跡を度々残していた。後になって、一連の騒動がこの狸の仕業だと知られてからというもの、その評判は大変なものとなり、一時期は「そんな馬鹿なことがあるものか」という意味の言葉として、「太田のわらじでそんな、ない(そんなわけがない)」というフレーズが流行したほどであった。

(横浜の伝説と口碑 上(中区・磯子区))


太田の陣屋

開港当時の安政6年(1859年)5月、福井藩が陣屋を建設して陸上の警備の任に当たりました。

当時このあたりの地名が太田村であったため「太田の陣屋」と称され、現在の日の出町にあたります。



文久元年(1861年)2月に松代藩へと変わり、慶応3年(1867年)にはフランス式の騎兵・歩兵、のちには砲兵も加えた「三兵伝習所」として士官の養成所に充てられましたが、しばらくして江戸へ移されてしまいました。


その後、陸上の警備として関門や見張番所の警衛に当たる県兵隊もここに本営を置き、明治4年の関門見張番所の廃止と共にこの本営も取り壊され、広大な草原となってしまいました。


しかし、明治14年頃には一時的に神奈川裁判所が(現在の聖アンドリュー教会付近に)置かれたこともありました。


古老の話によれば、この陣屋のあたりは広々とした野原で、その一角に兵舎があり、周囲には低い土手を築いてその上に木製の柵が巡らされていました。現在の長者橋のたもとのあたりに黒い門柱があり、その他周辺には人喰いの森と伝えられた薄気味悪い子の神社の森があるばかりで、人家などは一軒もなかったということです。


(横濱の史跡と名勝)


日の出町・子神社付近は元々は禁足地


創建は遠く推古天皇の時代(西暦600年頃)と伝えられる。 中世の頃より赤門の東福寺が別当(兼務)として管理して来た。 神社の故事や伝記はたびたびの火災や内戦の為焼失、霧散してしまい、その間の事ははっきりしていない。この地域に伝わっている事には、この神社は昔、里鎮守とか不入人宮(ひといれずのみや)と称されていた。文禄3年、松平越前守が神社の霊地保護の為、御本社の四隅に禁制札を掲げ、人の入場を禁じた。( 伊勢山皇大神宮HPより)



太田の原・ 不入人の宮(はいらずのみや)の今昔

昔は、厄病神(疫病神)を追い出すためには、太田の原の川岸にある「子の神の森」へ来て捨てるのが一般的な風習となっていた。


いわゆる、はやり神(疫病神)が村の中に入り込んで暴れまわると、朝のうちから村の者たちが名主のところに掛け合って、大岡川のほとりにあるこんもりと茂った「子の神の森」へとやって来る。


そして四本柱を立て、名ばかりの宮を急ごしらえし、お寺で悪魔退散の祈祷を行ってもらった上で、紙に疫病神の名前を記した物を持って、七色の菓子などを一緒に持参する。「決してここから外へ出てはならない」と封じ込め、後ろも振り返らずに家に帰り、切火(きりび)や浪の花(塩)で身を清めるのが常であった。


そのため、もしこの森に入ようなことがあれば、たちまちここに捨てられた疫病神にとりつかれてしまうと言われており、人々は森に近づくことを非常に恐れていた。


また、蝉捕りなどの子供が、急にここで熱を出してマラリア(瘧:おこり)などにでもかかると、必ずこの疫病神の仕業と信じられた。こうして、いつしかその場所は「不入人宮(はいらずのみや)」と呼ばれるようになったのである。   


横浜が開港してからは、付近に越前の陣屋が設けられ、日々大砲や小砲の音、槍や刀などがきらめいたため、なんと疫病神の方があまりの恐ろしさに耐えきれなくなり、どこかへ立ち去ってしまった。それ以降、この町には流行病などはまったくなくなった。


もともとこの川原の神様は「子の神」といい、長らくの間、疫病退散のために境目を貸していたので、非常に迷惑を被っていたことと思う。しかし、開けていく横浜の繁栄に伴い、この太田の原もいつしか人が多く住むようになり、名前も晴れやかに「日の出町」と改められた。


町の人々は、昔そんなことがあったことすら知らず、子の神も今では縁起の良い大黒様へと変わってしまい、町内安全や家門繁栄を守ってくださる神様だと言われている。

これは、珍しい古老の話をそのまま書き留めたものである。

(横浜の伝説と口碑 上(中区・磯子区)))   




疫病神を封じこめる人喰いの森から売春街へ

京急線の日の出町から黄金町(こがねちょう)の高架下を中心に、日本を代表する巨大な「ちょんの間(売春宿街)」が広がっていた。


黄金町の「ちょんの間」のルーツは、第二次世界大戦後の混乱期にさかのぼり、横浜中心部が米軍に接収されたことで、行き場を失った人々が京急線の高架下や大岡川周辺に流れ込み、闇市やバラック街が形成された。


「ちょんの間」とは、「ちょっとの間(短い時間)」に売買春を行う店舗形態の俗称で、表向きは小さな飲食店やスナックの看板を掲げながら、実際はその裏で違法な売春が行われていた。

昭和30年代頃には、違法薬物が蔓延して「麻薬銀座」とも呼ばれるなど、治安の悪化はピークに達し、大阪の飛田新地などと並び「日本三大ちょんの間」の一つに数えられるほどに。


阪神大震災を契機に行われた京急の高架橋耐震補強工事に伴い、高架下に密集していた店舗が一時退去を余儀なくされる。しかし、それが結果的に周辺への店舗の拡散を招き、2000年代初頭には違法な店舗が約250軒にまで急増。地域住民が日常生活も脅かされるほどの深刻な事態に陥る。


危機感を募らせた地元住民(初音町・黄金町・日ノ出町の町内会)やPTAは、平成15年に「初黄・日ノ出町環境浄化推進協議会」を立ち上げる。


そこに神奈川県警による徹底的な取り締まり作戦(通称・バイバイ作戦)が加わり、24時間の警察官配備やパトロールが行われた結果、2005年頃までに違法な店舗は一掃され、街から姿を消すことに。


違法店舗が去った後の黄金町には、多くの空き店舗やシャッター街が残されましたが、「全く新しい街に生まれ変わらせよう」と住民と行政、アーティストが一体となったまちづくりがスタートする。


かつて違法な店舗が並んでいた高架下は、現在ではアーティストのスタジオやカフェ、ギャラリーへと生まれ変わりました。毎年秋に開催される国際アートイベント「黄金町バザール」には多くの人が訪れる。

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