この坂は、関所で捕らえた罪人を処刑するため、処刑場まで罪人を連れていったが、ここまで来ると罪人もなかなか進まず、ころがすようにして引いていったことからこのようにいわれたという。(「多摩市の町名」)
コロゲット坂 関戸地区にコロゲット坂とよばれる所がある。ここは、荷車が上がれないくらい急な坂であった。先に罪人の首を切る場所があって、役人が罪人を無理に引っ張っていく姿がまるで転がるようであったのでコロゲット坂とよぶようになった。(『叢書5』)
昔、多摩市関戸に所在した関所が「霞の関」もしくは「小山田の関」と呼ばれていたようで、相模国から武蔵国の府中に入る際にこの関所を通る必要があった。場所は聖蹟桜ヶ丘の熊野神社周辺とされる。
小山田は現在の東京都町田市から多摩市にまたがる地域を指し、この地域は古くから関東平野の一部として農村地帯が広がっており、中世には小山田氏という武家がこの地を領有していた。小山田氏は鎌倉時代から戦国時代にかけてこの地域を治め、特に戦国時代には北条氏の家臣として活動したことが知られ、多摩市関戸の関所は別名小山田の関と呼ばれる。
関所で捕らえられた罪人は浄心場と呼ばれた乞田川の河原の処刑場へ連れて行かれた。ころがっと坂のあたりまで来た罪人は処刑の恐怖から足が進まなくなり、ころがすように引きずって連行したことから、この坂がその様に呼ばれるようになった。
浄心場はあった古市場(JA東京みなみ 多摩支店の裏)近くの乞田川に架かっていた木橋(現在は永山橋)のあたりと云われる。亡くなった方の供養のためか、現在でも永山橋の北側に地蔵尊が安置されている。
[多摩市の関所は平将門公が作った]
この霞の関が多摩市内の関戸と関連づけて現れる初見資料は、『曽我物語』巻第五の建久四年(一一九三)三月下旬に源頼朝一行が上野・下野の狩倉を見るために鎌倉を出発し関戸に宿泊するくだりである(資一―597)。そこには、平将門が関戸に関を立て、藤原秀郷が霞の関と名付けたと記されている。(多摩市史 通史編)
多摩市の関戸(せきど)は、古くから交通の要所として知られており、その地名にも「関」という字が含まれることから、かつては関所や重要な防衛拠点が存在していたと考えられる。関戸は多摩川沿いに位置し、江戸時代には江戸と甲州を結ぶ「甲州街道」の要所として発展してきた。関戸は歴史上、交通や商業、政治的にも重要な役割を果たしてきた。
伝説では多摩市の関戸に存在した関所は平将門公のより設けられて、俵藤太こと藤原秀郷が霞の関と名付けたとされる由緒ある場所である。関所自体は忌み地ではないが、処刑が行われた乞田川の浄心場は不浄な土地といえる。
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